花のことは 花に聞け

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お金を頂戴して花活けをせぬようになってから、かなり久しい。 

今はもっぱら庭の花の手入れや、野の花に魅入られてはいるが、ときおり無性に花活けの衝動にかられる時がある。

無理もなかろう、30年近くも花活け稼業をしていたのだ。

そんな時、必ず手にする本がある。

敬愛する師匠(俺が勝手に決めつけているだけだが)中川幸夫の作品集である。

この親爺は凄い。本物だ。この人ほど命を削って魂の花活けをする人は他に知らない。

師匠の花に圧倒されるのは言うまでもないが、同時に花に対する想いにも敬服する。

すべての花は、時分を忘れることなく、定めとして芽立ち、花ほころびる、実る、枯れすがる。
珍しい花に心惹かれ、花と対峙する。花が一期一会の世界と識れば、生け花は巌然と個々のものでなくてはならぬ。
かって生け花は、その立像として、器に立てる人間の極限の踊りであった。
わたしは花をいける。何をいけるか。
花にひとつひとつ「息」を見つけることである。

花は野にあるように。
日本の造形の真骨頂は、切り詰めた厳しい形に自然を取り入れる感覚である。
剪られた花は、あらゆる手法を駆使し、時間をも味方につけることで、はじめて凝縮した形をとることができる。
しかも、その美は作為も恣意も去って、
自然の摂理に連なるものでなければならない。
繰り返し「花のことは、花に聞け」と教えられる。

花は器と格闘する。
花とともに器と対面する時、わたしは許されるならば右手首を挿入してみる。
手首に鳥肌が経つかどうかが、器との関係の切実さをはかる決め手である。
立派な口をもち、天の豊かな恵みを大きく受ける薄手づくり。
息づかいが見事な器に出会った。
もしも花を挿したならば、一旦はそれを呑み込み
そこから器と花との格闘が始まることを予感した。

ほんの一部ではあるが、昔、己に喝をいれる時には、いつもこの師匠の言葉を読み返していたものだ。
そして、本当に「花とは、とりかえしのつかない一期一会」だと肝に命ずるのだが、未だにその境地には辿り着けない。
死ぬまでに一度でいいから、師匠の心髄に触れる花活けがしたい・・・などと、この頃花を見るにつけ、強くそう思う。