前後際断

豆の目

俺も先日66歳の誕生日を迎えた。

友人から「誕生日に、もう66と思う? それとも未だ66って思う? どっち?」なる質問を受けた。「う〜ん、どっちだろ・・・」即答出来なかったよ。

思えば50代にロクな仕事もせず、世間の「あいつは遊び人だ」や「いい歳こいて、未だに不良してる」の誹りを甘んじて受けてた頃は、自分の誕生日になると必ずと言っていいくらい「このままじゃいかん。こんなことしてたら永遠に明るい未来とは無縁の俺の人生になってしまう」と思っていた。だから、この時分は誕生日を迎える度に「ヤバイ、もうこんな歳になってしまった」ってな感じで捉えていたんだろう。

翻って今はどうだ?

正直なところ、俺自身よくわからんのだよ。70代でもピカピカ輝いて、其々のポジションで圧倒的な存在感を放っている諸先輩を見れば「俺なんぞまだまだ小僧だ。なんと遥かなる大人への道程であるのか!」と考え、その場合「俺はまだ66歳になったばかりだ」と思う。

しかし、この「まだまだ」というのが曲者なのだ。振り返れば、子供の頃の夏休み「まだまだ休みはタップリとある。こりゃちょっとぐらい遊び惚けても問題ねえ」から始まって、残り一週間となっても「まだ七日もあるじゃん」で、いよいよ残り一日となった時点で「ヤベー、どうしよう。もう休みが終わっちゃう」ってなパターンであった。そんな調子であるから、一事が万事 土壇場 瀬戸際 崖っぷちな人生であったようにも思える。

先日に新聞のコラムで「前後際断」についての記事を目にした。

もちろんこの言葉の意味は知ってはいた。一時期禅の考え方に興味があり、無謀にも禅宗の本を読んで「フムフムなるほど、奥が深い」などと分かった風な顔をしていたが、ただ観念的に頭で考えていただけであって、いやもっと短絡的に捉え「そうだ、そうだ。全くそのとうりだ。過去や未来なんぞに囚われず、今この瞬間に目を向けなくちゃいかん。今日を生きよう!シャラララララ〜」なんて自分に好都合な解釈をしていた。もともとが物事を深く掘り下げて考えるタイプではないからな、全ては自分にとって都合の良い方に答えを出しまくってた。

ちょうどゴロも良く66となった今、いや今だからこそ、この前後際断についてもう一度深く考えてみる必要があるな。

薪が燃えて灰となるのではなく、薪という本質においての前と後ろ・・・・・。難解だ!

酒を飲まなくなった今、少なくとも「前後不覚」にはならなくなったけどね。

本当に沢山の方々から、誕生日のメッセージを頂戴し、不肖矢納心から恐縮をしております。

ありがとうございました。